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T氏が最近読みあさった丹沢関連の情報をざっくり総合すると、
報国寮成立に至る背景は次のようなものだそうです。

なお一部の憶測を除きすべて受け売りであることをご海容願いたい、
とT氏は申します。受け売りも間違えていないことを節に願います。
けっこう過激なことを(とくに前半)云っているようでございます。
お気づきの点がありましたらどうかよろしくご教示願います<(_ _)>

090903_012917.jpg写真はネタ本の一つ、

砂防学講座第1巻-1
「日本の砂防総論(1)」
社団法人砂防学会監修
山海堂(1991)



すなわち、そもそも

江戸時代までは丹沢は都市部に近い割にアクセスが激悪で、
御留山(立入厳禁)の制度もあってヒトの手が加わらなかった。
住人も少なく、ヤマは自然に保たれた。全国的にみると
現在に至るまで丹沢の林業は盛んとはいえない、と。
京都あたりの山は寺社建立のたびに丸裸になったそうです。

御維新のどさくさで山の多くが国有林・御料林に編入されました。
青森などでは新政府小役人の「私有だと土地に税金かかるけんど
国有になれば税金はかからんし、これまで通りヤマに入れるし」の
口車に騙されて裏山が国有化された結果、実際にはヂモティは
裏山で薪が取れなくなり、後々まで苦しんでます。
明治政府は政府の財布と自分の財布を同じだと思ってたような
連中の運営ですから資金調達の必要が生ずると「払い下げ」と
称して一部の国有林を売却したりします。
買い手が投資の回収を急げば皆伐となるのは無理もありません。
皆伐したらたちまち崩れます。全国的にヤマが荒れ、豪雨の
たびに各地の川が氾濫したそうです。近所では山梨がひどかった
そうです。
お雇いオランダ人技師らの指摘もあり、政府は国有林の払い下げを
一時停止するとともに治山・砂防事業を開始します。
しかしアクセスの悪さが幸いしてか、丹沢の奥地は荒らされず、
緊急性ランクは(御殿場線=旧東海道本線のあった酒匂川流域を
除き)高いものではなかった、といいます。

明治の間、県は造林をしきりに促すも地元はイマイチ盛り上がらず。
木を植えて切るまでに40年はかかるっぽいので、おらがヤマを
愛しんで3代は続かないとうまくいかないのではないでしょうか?
明治の後期になって諸戸と森村の私有林が気を吐いたようですが、
彼らの治山の見識は高く、丸刈りなど決してしなかった。
要するにヒトの手が入らなかったぶん、丹沢の土砂災害の程度は
よそに比べればマシだったようです。

そこへ大正12年の関東大震災、続く豪雨と余震で、地質のもろい
丹沢は大崩壊します。急傾斜地はことごとく崩れ、沢という沢に
ガレが溜まります。当時のなるべく鮮明な写真を探して見ると、
「丹沢は病んでいる」ってレベルじゃねーぞ「壊れた」ってレベルだ
そうです。んで、大雨のたびに土石流が発生した、と。
【ご参考】神奈川県の治山事業の歴史
http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/sinrin/chisan/gaiyo/history.html
現状でも至るところで崩れてますが、その後戦争中に伐って持っていけそうな
ところはバシバシ伐られ、丸刈りしたようなところは戦後に頻発した台風で
大荒れしたらしいので、それを考えるとよくも現状まで復旧したな、と。


突如、緊急性ランクが大幅up。多額の事業費が充てられると
ともに、何しろ堰堤なんて誰も見たことがない(笑)ってえので
全国からヤマの技術者が招致され、炭焼きの窯の石が積めれば
堰堤はできるから(笑)、ってえので治山・砂防事業が精力的に
実施され始めます。カネと人の投資が続いて県の林務課は
大繁盛。昭和初期に緊縮財政で一旦削られましたが、大不況で
一次産業従事者がとくに困窮したので、県は時局匡救のため、
別枠の国のカネで農村民を1日1円位(今の5千円位?)で直接
雇用して治山・砂防事業を実施したそうです。当時は材料を
ほとんど現地で調達しており、経費の8割方を賃金として人々に
渡すことができるため、匡救事業として都合がよかったそうです。
今は逆、中間経費で半分抜かれて材料費3割で労務賃2割じゃね?
とT氏は根拠もなく申します。
※同時期に内務省も独立に砂防事業を直轄で実施しています。
弊ブログの右上にある写真「深田堰堤」は昭和8年内務省による
建設です。

それはともかく、山林行政を統括した林務課が、この時局匡救
事業を経験したことが報国寮成立に大きく寄与したんじゃまいか

とT氏は憶測します。すなわち素人のピーポーも、やる気と指導
さえあれば山仕事をかなりの程度がんがるとともに、治山の
意義を身に滲みてわかるかもしれん、と。
ヒトを育てるのは木を育てるようなもので、あ逆か(笑)、時間はかかるが
今のうちに植えておけば後々の林務行政は安泰と考えたのかも知れない、
とT氏は下衆の勘ぐりを致します。

また昭和6年、県財政基盤の強化のため御料林が下賜されて
います。+紀元二千六百年で、何らかの一般ピーポー参加の
事業も望まれていたのでしょう。


ここから宮澤先生の回想記につなぎます:
【参考文献】
宮澤敏雄「報国寮の回想」「造林史について想う」
神奈川県農政部林務課編「神奈川県林業史」
昭和46年(1976)所収

http://www.e-tanzawa.jp/support/e-tanzawa_Supt/info/tanzawa-DB/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E6%9E%97%E6%A5%AD%E5%8F%B2/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E6%9E%97%E6%A5%AD%E5%8F%B209.pdf
pp.162~172

宮澤先生は報国寮成立の要因に次の4つを挙げておられます。
すなわち、
●林政関係者の間に、俺らこんだけ苦労して山仕事して
下流域の人々の安全に役立ってるのに、一般ピーポーは
ちっともわかってなくね? 災害は忘れた頃にやってきて、
また忘れられる、という国民啓蒙の必要性の認識があった。
●昭和10年に農林省山林局が「第2期森林治水事業」を
策定した。これは長期(25ヶ年)で巨額(当時の7750万円)
の大計画であり、その意義を国民に周知させるための
啓蒙事業が求められた。
●当時の山林局長、村上龍太郎氏が「緑の栄える国は栄え、
緑を失う国は産業も文化も民族も亡びる」という直截な
スローガンを唱え、これに大日本連合青年団の理事長、
香坂昌康氏が共鳴賛同して積極的な実施指導に乗り出した。
●神奈川県は首都近郊で、知事に青少年の教育に理解と
熱意をもつ半井清、林務課長に(ヤリ手で有名な)木暮藤一郎、
社会教育課長に弥富富三郎の人を得ており、治山事業の
対象箇所も多かったので、その具現の地に選ばれた、と。

この事業はどちらかといえば社会教育課が主管すべきように
思われますが、現地指導は林務担当があたらざるを得ず、また
課の人員も圧倒的に多かったので、林務課がイニシアチブを
とり、社会教育課は入寮者募集の窓口、ということに落ち着いた
ようです。
木暮氏がアグレッシブに動いたんじゃまいかとT氏は憶測します。


そこで林務課が昭和12年の事業として予算化し、施設の名称は
勤労奉仕活動が建前であることから「丹沢報国寮」と名付け
られたそうです。
突貫工事で宿舎が建設され、昭和12年9月1日に指導員2名が
任命され、9月15日には宮澤氏が栃木県から出向して任命され、
今(2009年)から72年前の10月1日に開所されました。

ここで、敷地が諸戸の山林内に選ばれたのはなぜか、という問題が
あります。報国寮の大義名分は恩賜県有林の治山であり、直前の
昭和10年には恩賜県有林に隣接して丹沢林道が完成しており、
その沿線の拠点であった札掛の周辺に場所を求めるのは自然です。
しかし県有林内ではなく私有林内に建てられたのはなぜか?
適当な平地があったからにしても、諸戸と何らかの交渉があった
はずです。また丹沢林道の開通は
諸戸に格別の便宜を与えていた
はずです。
このあたりのモヤモヤが掴みきれずT氏の夢に出てくるそうです(笑)


次に宮澤先生はご自身が寮長に選ばれた経緯を詳細に語って
おられます。すなわち、

県は人材を教育界に求め、山林局と連青団に候補者選出を依頼

連青団所属のT農場(栃木農場?)主事のY氏が宮澤先生と同窓

母校(宇都宮高等農林学校)を通じ宮澤先生に照会

12年7月、東京青山の日本青年館・県社教課・林務課で面接

林務課の事情(?)で保留となるも

9月に入って急にまた話が持ちあがり出向決定

県内には吉田島農林などの学校があったにもかかわらず、
わざわざ県外から人材を招致したのはなぜか?
もともと復旧事業の担当者には県外出身者が多かったので
「外様」に抵抗がなかったことと、ひょっとして待遇面で
折り合いがつかなかったんじゃまいか?とT氏は憶測します。


宮澤先生はそれまで8年間、栃木農学校の教諭を勤めていたが、
・かねがね実務の第一線で働きたかった
・派手より地味、口先より実行、都会より田舎が好きだった
・生活即青年指導の途に生甲斐を感じた
という理由で転向を決意されたそうです。
農学校奉職の末期には生徒と共に校庭の片隅で炭を焼いたり、
測量班をつくって土曜日に生徒と田畑山林の測量をしたりと、
当時にしてもちょっとV派な先生であったようです。

ところが着任第1日にして待遇が月72円、前職より23円ダウンで
あることを知らされてガッカリした、木暮課長の弁明「大学出の
新卒が75円だから、君は社会歴8年あるが専門校卒だからそれと
同格にはできない」を聞いてさらに驚かれたそうです。しかし
「人の本質は待遇や地位ではなく仕事そのものに身を処することに
ある」として感情を克服し、その後7年余の激務に及んだ、と。

結果的には後の特別昇給で報われたのが何よりです。
(その2に続く)
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